Japan Environmental Exchange

ハリネズミ

山野 弘美(スイス在住)


 ある日のこと。「・・で、咳をしてるんだけど、どうしたらいい?」と夫のアンドレーアスが、妹さんに電話をしている。風邪をひいている私の事ではなく、ハリネズミの事を相談している。電話が終わるとすぐ「なんで、ハリネズミが咳してるの知ってるの?」と尋ねると、「だって、聞こえるよ」と。

 刈り取った葉っぱを積み上げていた枯草の山に、ハリネズミが家をつくった。薄暗くなる頃、ハリネズミが活動し始める時間、元気な様子をみるため、毎日、アンドレーアスは山の近くで待っている。その日は、私も咳を確認するためにつきあった。山が動き始めた。そして本当に時々、コンコンという音が山の中から聞こえる。山を揺らしながら出てきた。クンクン犬みたいに鼻をならし、餌を探している。咳をしていても元気そうな様子に、ひとまず安心した。

 数日後、妹さんから「はりねずみの注射」が届いた。肺寄生虫の可能性があるので、うった方がよいと、獣医さんからもらったのだ。ハリネズミは、人間が近づくと丸くなって固まる。私は分厚いタオルで、ハリネズミをそっと抱き上げ、彼はハリネズミのハリを一本横にずらすと、ハリとハリの間に注射をした。ハリネズミが一層体を硬くすると、私達を取りまく空気も張りつめた。終わると、もと居た場所に戻した。しらばくして、また動き始めたハリネズミは、コンコンの間にプンプンと言って、憤慨しているみたいだった。「怒ってるよ、こんな事されて・・」と私。「でも、しないと死んじゃうよ」と彼。二人で「怒って、居なくなったらどうしよう・・」とため息をついた。

 翌日、いくら待っても枯草の山は動くことがなかった。とっぷり日が暮れた中、アンドレーアスは、まだ待っている。今年は庭で、ハリネズミの赤ちゃんがみれるかと、楽しみにしていたのだ。さくらんぼの木のてっぺんで、自慢の声を響かせていたクロウタドリも家路に向かった。でも、アンドレーアスは動かない。

 庭で彼がたそがれている間、私の五感は目まぐるしく働き、夕から夜にかわる世界に魅せられていた。9年前、日本からスイスに来た時の違和感はもうなく、ヒヤッとした空気も風も心地よかった。ここまで辿り着いた縁を、私と確かに繋がっている生きとし生けるものの縁を愛しく思った。私の風邪には、あくまでも気がつかないアンドレーアスのおかげもあって、外国人の私が、この地で根をおろそうとしている。


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