「生生(せいせい)」山野 弘美(スイス在住) 長年、気に入ってよく聴いているCDがある。これを聞くたび、ギターが奏でるせつなさが心に染み、その旋律の美しさで胸があつくなる。もうずっと前、友人からコピーしてもらったものなのだが、「そう言えば、これ何語だろう?」と、ある日突然思った。言語に堪能な夫が珍しく「わからない」と言う。そして、ラベルを見て「ロマ族、ロマ語」と言った。 ロマ族は、定住しない「流浪の民」、ジプシーとして知られている。インド・パンジャブ地方が彼らの起源と言われ、流浪の旅に出た理由はわかっていない。ユダヤ人と同じく迫害や偏見を受け続け、ナチス政権下では、優生学的観点から「劣等民族」とみなされた。そして、強制的断種手術や、ホロコーストの対象とされ、約50万のロマ族が殺されたとされるが、強制収容所へ行くまでにも、多くが殺害されており、その数は正確にはわかっていない。戦後補償でも、ロマ族は他の民族より不利な扱いを受けている。スイスでは、政府の支援を受けた団体が、1926年から1972年までの46年間、ロマ族の子供1000人以上を誘拐し親から引き離し、強制的に精神病院や施設などに入れていた。その中で、多くの子供が暴行を受け、心身の傷跡は今も癒えることがないという。 そして私は、ハッと思った。沖縄やアイヌなどの少数民族の文化、黒人の文化など……凄惨な歴史を背負った人々の中から、すばらし文化が生まれていることに。その歴史の闇黒さと同じ深さで、それを昇華する生命力の強さと、その命の綿々に驚嘆する。その上、このロマ族の音楽からは、それを隠蔽するどころか、「私はここにいる! 私はロマだ!」と過酷な運命に挑んでいるようにすら感じるのだ。この魂に私は圧倒される。この強烈なアイデンティティゆえ、存在の濃さゆえ、彼らは差別者の神経を逆撫でしたのではないだろうか。 私が聞いている音楽は、商業的音楽とは一線を画する民俗音楽の部類に属するのかもしれない。生活の律動の中で、悲哀も憎悪さえも、時の中で磨かれ、結晶のように光り輝く。そこから生まれた音は、もはや商業的音楽のように消費されるゴミではない。個人が鋳型に入るような印象が強い、今日の伝統の継承でもない。伝統はすでに彼らの肉となり、そこに新しい血を注ぎこみ、時代を超え、国家を超え、彼らの中で輝いている。 人間はなんて弱く、そして強いものなのかと思う。「生」をひたすら肯定する音に、私はひれ伏せ、心をふるわせる。そしてこんな時、人間って結構いいもんだと思う。子供たちが幼稚園に行って居ない、お昼前のひと時、音楽に包まれ、母親でもなく一人の素の自分に、私はゆっくり戻っていく。その音色が、私に「生きよ、生きよ」とささやいている。 |