「連繋」山野 弘美 (スイス在住) 炊事場の仕事、掃除、洗濯、畑仕事、子供や動物の世話、薪の仕事、糸を績む仕事・・・。日々、たくさんの仕事をこなしながら、その中で針仕事は私にとって、息をぬいてできる楽しい仕事だ。それは小さな頃の原風景に、常におばあちゃんの針仕事があったおかげだと最近気がついた。だからこなしながら、きばることが全然なく、自然と息をしている。「裁縫」が嫌いと思い続けていたのは、思春期を迎えている子供達を、まるで汚いものを見るように見下した視線で、家庭科を担当していた中学校教師のせいだった。 おばあちゃんは物心ついた時から、大原女をしていて、背中に漬物などを背負い行商をしていた。大原女の格好は独特なもので、着物地でその仕事着を全て手縫いし、継ぎあてをしながら、80歳近くなるまで、約70年、少しも捨てるところなく着古した。働き着だけでなく、座布団、布団のカバーや前掛け、日々必要なもの全て手で繕っていた。継ぎはぎしてあることに気がつかないほど、きれいな手仕事だった。そして、洗う時、ご飯を薄くのばしたのりを、布地につけた。それは乾くとごわごわした感じになる。子供だった私は、とくにそのごわごわ布団で寝るのは好きではなかった。しかし今、そのごわごわが清潔で働き者の象徴のように、私の中に残っている。 生きていくことが大変な時代に育った人だったから、人生の目的や、日々を楽しむという考えなどないように見えた。その上、酒飲みのお父さんをもち、貧乏という苦労をしたので、お金をだして「買う」という発想が乏しかった。だから、ミシンを買って使うなんて発想にも辿り着かなかったのだろう。おばあちゃんの「もったいない」というつぶやきは、環境保護のスローガンでなく、ただ生き抜くために、生活をやりくりするための、心の底からの実感だったのだ。そこに終始したこの言葉は、よって「環境」という広がりをもつことはなかった。 針でちくちく子供達の服や靴下を継ぎあてしながら、おばあちゃんがお針をしている姿と自分とを重ねあわせ、亡くなってしまった彼女が、今は私の中で生き続けていることを実感する。そのおばあちゃんと私は血が繋がっていない。母は養女だったのだ。日々の暮らしの中で、血縁よりも強い人と人の繋がりを、人は育むことが可能な事を私は知っている。私に繋がったおばあちゃんの生き様が、私の子供にどのように繋がっていくのだろうか。 |