「腐りたい」山野弘美(スイス在住) 林檎がたわわになり、枝がしなり始めた。外は、秋色に満ちている。地面にふさふさ積もる落ち葉も、木々も、空気までが染まってしまいそうだ。林檎の木を見上げると、たわわの実が見えにくい。ボスコープという林檎の種類は「備前焼き色」だと夫は言う。これが秋色の中に入ると保護色になるからだ。しかし、一つ、二つと採っていくうちに、林檎目になってきて、籠の中の林檎がどんどんふえる。もう無いと思い、違う枝に移る。すると、場所をずらすと、葉っぱや枝にかくれていた大きな実が、まだたくさんあることに気がつく。「角度を変えると、見えてくる」私はそう心の中で、思いを言葉にする。 「あぁ、あそこに大きいのが・・」と思い、必死になって腕を伸ばし「もうちょっと・・!」と思った瞬間、つま先立ちした足が、狐か猫のウンコを踏んでいる。私の場合、これぐらいの欲ですぐこうなる。枝がゆれるだけで、落ちてしまう実もあるが、なかなか枝から離れようとしない実もある。そんな実をクルクル回していると、突然、へその緒を無理やり切っている気分に襲われた。それで、もうこの辺でやめにしようと思う。籠の中には、秋が十分収穫できた。 木の上にはまだ林檎がたくさん残っている。そのうち、鳥達はそれをついばみに来るだろう。木の下には、たくさんの林檎が落ちている。様々な虫達は、その林檎に卵を産みつけている。やがて、卵は孵り、幼虫は林檎を苗床に、成長を続ける。残りは腐り続け、やがて土の養分となり、それが落ち葉などと共に多くの命を宿し、世界を彩っていくことになるのだ。それを思うと主役は、すばらしい香りを放つ美しい花や実ではなく、また黄金色の葉でもなく、腐りゆくものではないかと最近思う。そう思うとき、生き続けた後、私もまた心ゆくまで腐り、何かの苗床になれれば本望だと思うのだ。一見厳しい冬の懐の中で生命は育まれ、春には成虫となり、鳥達が集い、また一年が巡る。その循環の中に居続けたいと思うのだ。 |