「オソイホド ハヤイ」山野弘美(スイス在住) 私は、人一人が排出する一生分のCO2量 を、20代前半ですでに排出しきったと思う。徒歩や自転車で数分の所も、車を利用した。利用頻度だけではない。京都の街中を、夜間、時速120キロでぶっ飛ばしていた。またその勢いで、アメリカ大陸を一日1000km走った。若さとは“愚かさ”を含有ものだが、私の場合、特にひどかった。20代半ばでJEEと出会っても、この環境団体に車で通っていた。その矛盾に気がつくのに、時間はかからなかったが、実際、車を廃棄して、徒歩と自転車の生活に入るには、数年の年月が必要だった。 そして「便利な」生活と一線をひく生活が、少しづつだが始まった。育児に 毛を逆立てて健闘していた時「生活をもっと便利にしなきゃね」と人から言われた。育児は、イライラしたり、悲しくなったり、辛くなったりを延々と繰り返す。だから工夫は必要と感じたが、「便利に」という発想は、もう私にはなかった。「この時期を、どうやってのり越えるか?」その自分自身への問いかけは、「時間」というものを考える道のりに通じていた。 そんな時、昔よく読んだミヒャエル・エンデ作の「モモ」をよく思い出した。浮浪児のモモが主人公の「時間」をテーマした物語である。時間を司るマイスター・ホラの所に行く途中、モモは“白い地区”を通る。カメのカシオペイアが「オソイホド ハヤイ」とモモにその地区の秘密をおしえる。ゆっくり歩くほど早く進み、急げば急ぐほど前に進めない。そんなモモは、マイスター・ホラの家で聞いた、星の声と時間の花の歌を、澄みきった声で歌うことができるのだ。ボロボロの服を着ているモモが持っている豊かな本質に、金持ちが持つ豊かさよりも、一層憧れたものだ。 ところで、私の家の居間には、暖炉がある。冬になると、薪の火にみと れ、ソファの上で家族みんなで、ボケーッとなる。ある時、その暖炉から演歌が聞こえてきた。炎の中から聞こえてくるのだ。またある時は、アラビア風の音楽 で、またある時は、クラシックが聞こえる。家族は「聞こえない」という。私は「モモに近づいている」とほくそ笑んだ。しかしまだ、星の声らしき音は聞こえず、演歌なので、時間の深遠を知るには、ほんの初級レベルといったところだろうが。 こんな私だから「便利さ」を追求する世間とのギャップは年々深まるばかりだ。しかし、有限の人生の中で「オソイホド ハヤイ」という方法で、モモに近づきたいと思う。 |